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青森市演劇新聞第3号
青森市演劇新聞「舞台」第3号 |
平成13年3月20日発行 編集:劇団雪姫 発行:貴田千代世 |
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◆祝新世紀「私の抱負・一言集」 かつて映画「2001年宇宙の旅」に感銘を受け、21世紀という言葉に希望を抱いていた自分が、現実にその時代に生きている。それはこれまで体験したことのない節目だ。私たちは果たして、キューブリックの思考を超えられるのだろうか? 青森市で演劇活動を展開している団体・個人に「新世紀に向けての抱負」と題してアンケートの協力を依頼したところ数団体からの回答を得た。彼らの新世紀に幸あれ! ●青森大学・演劇団健康 ★佐藤正道(俳優) 生きぬく(22世紀まで)。 ★三浦弘隆(俳優) とりあえず笑う。 ★斉藤太一(俳優) いろいろがんばる。 ★蝦名奈央(演出・俳優・代表) とにかくいろんな所へ出て、勉強するつもりです。新世紀にはあの人もいなくなってしまうので。 ★佐々木史恭(俳優) いつまでも「飛び道具」としてやっていきたい。 ★阿部千春(俳優) あべっちです。 ★近藤直子(俳優) 成人式終わったら髪切ろうかな。 ★青柳勇輝(俳優) 適当に頑張る。 ★西脇亜由美(制作) 下っぱにまわること。 ●劇団夢遊病社 ★工藤静香(俳優・衣裳) 自分をしっかり持ち、マイペースに、しかし静かにするどく前進する。何より楽しみたいな。 ★水戸竜之(舞台美術) 就職して、幸せな家庭を築く。 ★対馬愛(制作) リッパな制作になるようにばんがってみる。 ★柴山大樹(作・演出・代表) 卒業・・・。しなければ何も始まらない。 ★田邉克彦(制作・俳優・小道具) 次は22世紀。 ★盛田彩子(制作) 最高においしい紅茶を飲む。 ●劇団雪姫 ★貴田千代世(代表・演出) 言うべきことを発言できる立場、そして、聞いてもらえる立場にならなければと考えています。 ★船水千秋(俳優・舞台監督) 自分の欲求に正直に、大胆に、尚且つ謙虚に。流されることなく、自らが意志をもって変化を遂げられるのを楽しみたい。 ★佐藤優(俳優) 気持ちにいつでも余裕や、ゆとりを持って落ち着いていく。 ★北川江美子(俳優) 悔いのない20代最後の年にするために日々成長・日々勉強。 ★畑山由美子(俳優・制作) 自分のいるポジションで出来ることを実行していきたい。 ★佐々木真理子(俳優) 明鏡止水の心をもちて、着眼大局の目で望み、泥中の蓮となる。 ★寺山聖文(照明) 雪姫の照明スタイルの確立。照明を見ただけで雪姫とわかるような照明スタイルを。 ※掲載順は全て、原稿をいただいた順に掲載しています。また演技者の呼称については様々な表現がありますが、ここでは「俳優」という表現で統一しました。(編集者) ページトップへ 目次へ ◆演劇評 劇団雪の会公演「燃えよ汝ぞフェニックス」 鎌田秀勝 昭和21年4月。まだ戦災の焼け跡が残る青森市に第二次新興舞台が結成された。その月の28日焼け残った蓮華寺で朗読会を行った。公会堂も焼け残ったが占領軍が支配していた。食べるものも着る物も乏しく、家はバラック小屋のようなものだった。そんななかで「芝居をやろう」と立ち上がったのだ。会場の蓮華寺の周りに人垣ができるほどの人気だった。長内和夫宛の手紙の中で福士勝衛はこう書いている「窮乏の中に潤いを添えたいと私たちは一歩を踏み出しました。」次いで9月正式な第一回公演が、新興映画劇場で行われた。上演作品は「メレオン島の悲劇」(オリジナル)「どん底」(ゴーリキィ)「熊」(チェホフ)の3本。【街づくりと演劇−青森市の演劇史と演劇の可能性−より】これが青森市での戦後演劇史の第一歩である。 雪の会創立45周年記念公演「燃えよ汝(な)ぞフェニックス」(作/篠崎淳之介、演出/澤田亀吉、田中耕一、山田秀樹)は、雪の会としても久しぶりの新作である。舞台は、昭和20年7月28日の青森空襲で犠牲となった家族や、それぞれの心の中にある戦争の傷を背負って生きている青森市民の日常が、喫茶ランデブーに出入りする人々を中心に描かれ、その傷痕からやがて芝居作りを通して力強く立ち上がっていく姿が描かれている。 篠崎の脚本はいつも「信じる力」のようなものを観客に教えてくれることが多い。これは篠崎のやさしさと人間礼賛の表れであろう。今回も戦災の中から立ち上がる「市民の力」と「演劇の力」を中心に描かれているが、篠崎の目線は戦後の青森市を振り返りながら、会の45年も振り返り、演劇の可能性や何故演劇なのか、これからどこに向かっていくのかを検証しているように思えるのは、私の勝手な思い過ごしだろうか。 プロローグの空襲の地獄絵図から始まり、ラストの桜満開の場面での主題歌は観客を優しく包んでくれるようで、この辺は雪の会の得意とする手法であり、良くできている。役者陣では田中耕一演じる内科医矢野の存在と、女乞食トージョー(田中光)が今回の芝居の象徴的存在感があり良かった。 しかし問題がないわけではない。劇中で使われている様々な演劇的要素、シェークスピア、チェホフ、「瞼の母」「三人姉妹」「婦系図」「どん底」等々は思いとしてはわかるのだが、すべてが果たして有効に働いているかは疑問である。 観客は抽象的で飛躍が大きすぎると難解になり、説明が多くて単調だと飽きてしまうという厄介なものだから、観客がいままでに得た演劇体験や演劇知識の中にそれらがあるかないかは大きな問題である。日本の大衆演劇はあるとしても「三人姉妹」や「どん底」は疑問である。もちろん演劇体験や知識が無くても処理次第で何とかなる場合もあるが、今回は演じている役者にも観客にもあるとは思えなかった。 特に「どん底」に関して言えば、第二次新興舞台が青森市の戦災の中で最初の舞台の作品に選んだことや篠崎が劇中に引用したのは理由があるはずである。「どん底」の物語は単純な構成だ。昼でも暗い地下の木賃宿に生息する住民、生きる気力さえもたぬ人々の所に、ある日、旅券を持たぬ巡礼老人が登場し、彼らに生きる勇気を与えるというものだが、これほどの人間礼賛の作品はない。この「どん底」と戦災から立ち上がる市民、演劇に向かう人々が重なり合い、「どん底」のサーチンの人間礼賛、そして人間の尊厳のセリフが観客の心に届き、これから私たちの向かうべき方向が見えたとき、この作品は成功したのではないだろうか。そういう意味では演出の段階で「どん底」の処理をもっと考える必要があったと思う。 雪の会に関しては、青森の演劇界のリーダーでもあり、演劇を大衆化した功労者であろう。当時演劇は、いわば一部の知識層の演劇である新劇が主流であった。対して雪の会は紆余曲折がありながらも、方言を舞台用語として主題曲を作り、主題歌を歌い、軽演劇をも視野に入れ「ツガル・ミュージカルス」という一つのジャンル、一つの時代を築いてきたのである。現在では演劇は何でもありの世界になってきたが、当時、雪の会には、各方面からの風当たりも強かったはずである。 当時の雪の会を知る人は多く、現在中央で活躍している木野花さんも「雪の会のツガルミュージカルと銘打った、とんでもなく面白い芝居を観てしまったのだ。津軽弁で、吉本も真っ青なくらい笑わせて、青森にもこんな劇団があったんだと驚いた。青森の演劇の未来と可能性に大喝采を送った。今思い出してもあの時観た津軽ミュージカルは、どこに出しても引けを取らないすごい芝居だったと思う。」【青森演劇三十五年のあゆみ記念誌より】というように、時代にあった演劇に対する理念や方法論が確立していた劇団といえるだろう。 今回の公演には、雪の会のメンバーである故牧良介、野津こうへい、伊奈かっぺいは出演しておらず、新生雪の会の公演と言ってもいいかもしれない。雪の会の舞台はこれまで津軽弁を方法論として使用してきたが、中心メンバーが抜け若い役者が中心の舞台は、津軽弁が話せない世代になってしまっているのである。 津軽弁を方法論とした当時は、標準語が上手く話せないという事もあるが、標準語でのセリフは嘘っぽく聞こえたからである。それが現在では逆転している。これは役者の問題も少なからずあるが、津軽弁の話せない、聞けない世代が多くなるわけだから、世代交代とともに方法論の見直しも必要なのではと思わせた45周年記念作品であった。 新たな方法論は、劇団や主宰者が必死になって己の存在を刻もうとする姿が紛れようもなく現れている時、言い換えれば自己のスタイルの模索そのものが、新しい方法論を形成しれいるのだと思う。そして、それは、場合によっては観る者にいささの窮屈な思いをさせるが、その窮屈さの陰にこそ清冽な魂が息づいているのだろう。演劇は時代を映す鏡とも言われている。新しい理念と方法論を確立した劇団は、一つの時代を築くだろう。新しい船を動かすのは新しい水夫です。21世紀に新しい演劇史の第一歩を、全ての劇団に期待しています。 (青森演劇鑑賞協会・事務局長) ページトップへ 目次へ ◆演劇評 劇団雪の会公演「燃えよ汝ぞフェニックス」 対馬愛 変な前置きですが、私は「劇評」という大それたモノをかける人間ではないので、これは「劇評」ではなく、ある一人の「感想」ととらえていただければ良いと思います。 青森で歴史のある劇団の1つとして劇団「雪の会」という名前は知っていましたが、今までその舞台に触れる機会が無く、今回「燃えよなぞフェニックス」を観劇する事をとても楽しみにしていました。宣伝用のチラシを見ると、「雪の会」の劇団員の他に青森市内の劇団で客演として参加している方もおり、青森市が全体で作っている芝居のような気もしました。 幕がひらいてまず飛び込んできたのが、とても澄んだようなきれいな舞台でした。オープニングの舞台上は、悲惨な事を物語ってはいましたが、その舞台美術、音響、照明のきれいさにゾクゾクしました。 お話しは、戦後、演劇を復興させようとするひとたちの模様を描いたものです。「雪の会」のお芝居は初めてでしたが、役者の方の中には一緒に共演した方もいますし、客演している姿を見たこともあるので、お話しを楽しむほかに「こういう役もやってるんだー」という楽しみ方(?)もできました。 私の中では女乞食の役を演じた方が大変切なくて強い印象を受けました。まわりでは、元気の良い女の人たちが動き回っている中で、その人が来たときだけ変わっていないようなその空気が何か一つふっと静かになったような、そんな感じがしました。また、加藤英作を演じた森田さんは、いい声で堂々と舞台に立っている姿が印象的でした。この芝居の登場人物は、みんな立つ位置がしっかりしていて、パタパタ走り回る役の人にもどこか落ち着きが感じられました。 青森市の「歴史」を芝居にする(たとえフィクションだとしても)劇団は最近ではあまりありません。新しいものがどんどん取り入れられ、「歴史」はやがて溶けて無くなってしまうのではないかと思ったりします。今回「雪の会」の芝居を観劇して「歴史」をこんな風に残していくのもいいんじゃないかなと思いました。青森に住んできた人間としてそう思うのです。 (劇団夢遊病社・制作) ページトップへ 目次へ ◆演劇評 劇団雪姫公演「シリウスの雫」 天坂克格 今回の劇団雪姫・第22回公演「シリウスの雫」(上演時間・1時間15分)。第10回青森県民文化祭参加作品であり、柴山大樹(劇団夢遊病社)の書き下ろしを貴田千代世が演出した。 劇団雪姫は県内でも有数の公演回数を誇る非常に活動的な劇団である。しかし、劇団員の絶対的人数の不足や、それに伴う男女構成比の不具合により、戯曲の選択肢が少ない等の他の県内の劇団とは一味変わった問題を抱えている劇団ともいえる。 しかし、これら問題も解決した。それは青森大学劇団健康と、そのOBが旗揚げした劇団夢遊病社との連動である。これは正に“需要と供給の合致”と言える。この「人はいないが金(劇場)はある(用意できる)劇団」と「人はいるが、金(劇場)が無い(用意できない)劇団」の協働は、思惑は如何にせよ、県内の演劇界にとって非常に良い刺激になるであろう。 ストーリーは雪姫看板女優演じる考古学大学院生、狂田ハト(佐々木真理子)を中心に展開する。突如、行方不明になる狂田。これを探す為に友人、友田アミ(畑山由美子)は探偵・御手洗潔(佐藤優)を雇い、御手洗は狂田の痕跡から相棒の石岡和巳(田邉克彦)と共に北フランスへ。一方、狂田の属する研究室の教授、人見広介(柴山大樹)も助手A・B(北川江美子・蛯名奈央)とそれぞれの思惑を胸に、北フランスへ。そして何故か現代にいる、鄙猥(ひわい)なナイチンゲール(船水千秋)の登場・・・。 舞台も時代も、それぞれ「日本⇔北フランス」と「70年代⇔室町時代⇔中世ヨーロッパ」へと流転する。その中で登場人物達も時代に合わせて役柄が変わり刻を駆ける。何故、狂田は姿を消したのか?北フランスに一体何が?御手洗は無事、狂田を探しだせるのか?そして「シリウスの雫」とは・・・・・。 前半のテンポの良さは特筆に値する。だが、中盤の一部と終盤に訪れる強烈なスピードダウンにはついていけなかった。あと、ストーリーの整合性と登場人物の必要性に若干の疑問が残った。恐らく、戯曲を読めば整合性は付くのだろう。しかし、その整合性は舞台で表現できて初めて意味を持つと言えるものであると思う。 また、主演の佐々木にも不満がある。雪姫看板だけあって一番目立ち光っているのだが、どちらかと言えば逆にそれが仇となり全体の調和を乱している感があった。むしろ、佐々木の演技に付いていけない周りの役者を非難すべきなのかもしれないが、彼女の技量・力量を考慮すれば周りに完全と合わせるまではいかなくても、調和を図るという行為自体は難しい事では無いだろう。 そして、彼女の持っている雰囲気自体にも問題があると思われた。序盤、佐々木演じる狂田と、畑山演じる友田の掛け合いの場面がある。ここでは、友田が最近の狂田の行動を心配するのだが、この時の佐々木は、戯曲の流れとして別段不幸ではない筈なのに、何故か非常に不幸な人間として見受けられた。他方、この時の畑山は純粋に友人を思いやる優しさがある演技を見せた。結果として“不幸と優しさ”の図式は対比により、ひときわ顕著に表れていた。 この「不幸な佐々木」は話しの全般に現れており、難解な内容をより一層難解にしていた。もしかしたらこれは演技以前の個性の問題なのかもしれない。はたまた、本来ならば劇評で論ずるべき話題では無いのかもしれない。しかし、酷だが、彼女の事を考えれば論ぜざるをえないのだ。無論、佐々木の演技レベルに早く他の団員が追い付く方が急務なのではあるが…。 以前、とある著名な作家のエッセイ集を読んだ。その中でこの作家は「男運・女運」について面白いことを言っていた。私を含めた、ごく一般的な考え方として「男運の良い女・女運の良い男」とは、きっと女性にとっては「ハンサムで包み込むような包容力があり、経済力と決断力を兼ね備えた思いやりのある男性」であると思うし、男性にとっては「美人で優しく家庭的で、母親のような温かさがある女性」だと思う。しかし、この作家は違うと言うのである。「真の意味で“男運・女運の良い人間”とは、それぞれ異性によって“ドキドキ・ヒヤヒヤ・ハラハラ”させられる男、または女だ。」と。 例えば今ここに、とある若夫婦がいたとする。これまで結婚生活の数年間は夫婦共々、配偶者の浮気などは一度も考えた時がなかった。互いに信頼し、夫は会社で妻は家庭で、それぞれの務めを無事に熟(こな)してきた。 しかし、ここ最近、妻は夫に不信を抱くようになっていた。夫が浮気をしているのではないかと思わざるを得ないフシがあるのだ。さすれば、妻はどのような行動を取るのだろうか。確かに、夫を問い正したり不信の払拭の為に興信所等へ調査を依頼するかもしれない。しかし、利口な女性ならばその家庭内での生活は、これまでのものとは一転すると思う。これまではただ義務的に熟してきた家内労働、つまり食事の準備でも、想定される夫の浮気相手への対抗意識から気合を入れて作るのではないだろうか。そして漠然とすごしてきた日常を、夫を取られたくない気持ちから有意義に送り始めるのではないか。例えば女を研く。エステに通ったり、エプロンが制服だったのを、もっと洒落た服に変更する。夫との関わりがあるような社会の変化・問題点の情報に敏感になる等々。 以上を妻のみに着眼してみると、妻は夫の不倫疑惑が発生前と後では全然違うのである。不倫疑惑発生後の方が人間的に、その他惰性で生活している主婦群よりも明らかに成長しているのである。 ここでの理想的結末は、夫の不倫疑惑はあくまで推測の域を出ず、その後は無事に夫婦として生活していく事だろう。そうなると妻はただ“取り越し苦労のくたびれ儲け”をしたように思われるが、そうではないという事は、もはや言うまでもない事だろう。 上記夫婦の話では、妻が夫は不倫をしているのではないかと「ドキドキ・ハラハラ・ヒヤヒヤ」した。そして、妻は良い方向に成長した。このように考えてみると、もしかしたら妻は「男運の良い女」だと言い切れるのかもしれない。夫の不倫疑惑によって妻は動揺し、夫を失いたくない一心で努力した。そして疑惑解消後、妻が落ち着いて自分というものを客観的な鏡に写し照らし合わせた時、彼女等は自らの姿に密かと満足するに違いない。 全ては妻の不信から始まった。そして、その不信から来る不安・動揺、これらが彼女を変えた。心の変化、不安・動揺が作用して数々の努力を経て自らの満足へと、そして記憶へと繋がったのだ。 これまで「男運の良い女・女運の良い男」の話を紹介した。この話は、自分を「ドキドキ・ハラハラ・ヒヤヒヤ」させる相手、言ってみればこの様な事をする異性と巡り合う偶然性に依る所は大きいと思う。やはり男女の出会いを求め、言ってみれば地球に住む60億もの男女は文化の違いはあるものの、それぞれ30億分の1の確立を求めて彷徨っていると考える事ができる。つまり我々は何物にも変え難い伴侶を探す為に天文学的な可能性の海の中に我々は生活している事となる。 この様に考えてみると、私と「シリウスの雫」の関係も、恐ろしいような可能性の中から誕生した“偶然性”に引き寄せられた気がしてくる。 ではここで、上記の要素、つまり“偶然性”すなわち“運”に支配された、「シリウスの雫」に関しての私の「演劇運」を考えてみる。 これまで記した通り、男女の出会いとは偶然性に彩られた、正に運命としか言い表せない程の奇跡的現象である。さすれば、青森県内で公演される演劇の上演回数、強いては世界中で上演される回数を考慮に入れていくと、今回私が雪姫の「シリウスの雫」を観劇した事も、この偶然性から来る奇跡的現象とも言えるのではないだろうか。 では「演劇運の良い人間」とは、どのような状況の、演劇によってどのような体験をした人間なのだろうか。 やはり、一般的に考えれば「演劇運の良い人間」は、「演劇により感動させられた人」だろう。不幸なヒロインに涙する。完成度の高い、推敲に推敲を重ねて練り上げられたシナリオに圧倒される。これら演劇により感動を得られた人間は、その観劇時間を“充実した時間”として過ごせたと言う事が出来るだろう。 しかし、やはり疑問が残る。本当に「演劇運の良い人間」とは「演劇により感動させられた人」なのだろうか。他に何か条件はないのだろうか? 以前、不倫疑惑を抱いた妻は「男運の良い女だ」と記した。これは一般的に考えれば常軌を逸した考え方だといえる。確かに夫婦生活において“不倫”という言葉そのものが登場しないのが健全である。だが、今回は違うのだ。この場合は夫に不倫疑惑があって妻にとって良かったのだ。別段、私は不倫を肯定しようとしている訳ではない。だが、幸福も不幸も、感情の変化に起因している。結果して、感情の起伏如何によって両者は分けられているのである。言い換えれば、今回は妻の感情が当初の不幸から後に充実感に変化した、ただそれだけの事と言い切れるのではないだろうか。 このように考えてくると、真の意味での「演劇運の良い人」とは「演劇により感情を揺り動かされた人」と思えてくる。 私はこの劇評の内容から理解できるように、非常に感情を揺り動かされた人間と推測できる。即ち、私は雪姫の芝居によって「ドキドキ・ハラハラ・ヒヤヒヤ」させられていたのだ。そして、上記によれば、私は「演劇運の良い人間」に分類されるであろう。 しかし、残念ながら「自分は演劇運が悪いのではないか」と思う人もいるだろう。そのように思っている人には、是非雪姫の舞台を観てほしい。恐らく不満、または好感等の「心の動き」を感じる事が出来るだろうから。 最後に突然だが、魚のニジマスの話をさせて頂く。このニジマス、水中昆虫や小型魚を食料としているそうだ。よって、川の中央部を住みかにしているニジマスは多くの餌を食べることができる。しかし、川の隅を住みかにしているニジマスは必然的に少ししか餌を食べることができない。さすれば、「川の中央に住むニジマスは大きく、太っているのか?」と思いがちだが、違うのだ。川の流れは中央へ行けば行くほど速くなっていく。だから、ことニジマスに関しては流れの速い中央に住む奴は、その流れの為に多くのエネルギーを消耗して、隅に住む奴は余り消耗しない。よって、仮に小さく痩せたニジマスを釣り上げた場合は川の中央に住む奴だと推測できるのだ。 これは、演劇でも言える話である。確かに都市にある劇団は観客の絶対的人数も多く、劇場も整っている。しかし、そこは競合他社も多く盛衰も激しい場所とも言えるだろう。 ここで演劇の川の流れを考えた時、青森市は隅の方に位置付けされると思う。しかし、ニジマス同様に大きく太る可能性が都市の劇団よりあるとも言えるのではないだろうか。是非とも、今後雪姫に太ったニジマスになってもらい、我々観衆に舌鼓を打たせて欲しいものである。 次回作・「ロマンティック〜21世紀の恋愛依存者」に期待して。 ページトップへ 目次へ ◆演劇評 劇団支木公演「昨日・今日・明日」 畑山由美子 まず驚いたのはコメディー風に始まったこと。 あのヒビの入った写真のポスターとコピーを読む限り、その芝居がコメディー風に始まるなどとは予想できなかった。 * チラシの裏にはあらすじが載っている。あらすじが最初からわかっているというのは、話がわかっているという安心感と善くも悪しくも先入観が生まれる。 今回はその先入観を裏切る逆の効果があった。 * テーマ、根底にあるのは「戦争」。戦争と言えば「陰惨」「死」という負のイメージ。 駄目押しのように前説は法要の挨拶のパロディ。リンまで鳴ったりして。オープニングも法要の準備から。 上手・下手の両奥に置かれている「蓮の花と葉」のオブジェは「仏教」や「アチラの世界」を連想させる。 ここまで「負」がそろっていながら、なぜか「負」のイメージがまるでない。ないだけではなく、笑いまで起きる。おもしろかったのは「故人の遺影」。無機質な色の、穴のあいた装置。抽象的なものを周りの具体物で説明するやりかたは好きではないのだが、その装置のおかげで「仏壇」「仏間」そして「“装置の穴から役者が顔を出した”故人の遺影」が出来上がった。 しかし根底にあるのはやはり「戦争」。笑いだけでは片づけられない重いテーマ。 以前、「死を丁重に扱うことだけが、死を真剣に考えているということではない」という意味合いのことを宮崎駿氏が言っていた。 今回の芝居にそれを感じた。明るく、軽快であっても、決して「死」や「戦争」を軽々しく、おもしろおかしく描いてるだけではないこと。 テーマが重くなればなる程、技術が必要になってくるんではないだろうか。 * コピーの「なぜ私たちをおいて死んだのですか。」 重くて暗い言葉が、前半のコメディ風の軽さとの強い対比に感じた。 しかし、最初このコピーを読んだ時に感じたのは「なんて理不尽な」という思い。「戦争で死んだであろう人に向かってなにを言ってるんだこの人は。望んで死んだわけでもなかろうに」と。でも、芝居をみて「なるほどなあ」と。 言ってる人もそんなことは言ったってしょうがないし、理不尽だっていうことは百も承知。なのに言わずにはいられない。それを聞く側も千も承知。聞く側の承知の「千」から、言う側の承知の「百」を引いた「九百」が、理不尽もなにも取り払ってしまう。「戦争」ってのはこんなもんかな、と。あら、どっかで聞いたこのせりふ。ま、いいでしょ、パクリも文化。 * それと、今回の配役。 今までいつも男性の役者さんの配役に「?」を感じていたのだが、今回はそんな疑問というか不満もなく芝居の中に入っていくことができた。特に木村さんの配役に拍手。あのキャラクターは木村さんだからでしょう、きっと。大変ハマっていた。その奥さん役の秋田さん、妙な色気と威勢のよさ。娘役の有馬さん。まったく年齢不詳の方で、違和感なく「娘」に見える。3人ともそんなに実年齢は離れていないはずなのに、まったく「親子」。誉め言葉になってないかもしれないが。 現代を生きる三人の親子と先祖四人とのやりとり。観客にはコメディーに見えている行動が、タネアカシの後ではまったく意味合いが違ってくる。知っていて知らないふりをするやさしさ。そして現代人らしい心中の理由と生き返った後のギャンブルの場面。悲壮感のなさがやはり現代的。軽薄なほどのあっけらかんとした様子に腹が立つものの、今の時代なら、そんなもんなのかな、と妙な説得力を感じた。 * おもしろい場面を中途半端にやることほど見ている側がツライことはない。今回の舞台でもその中途半端さを感じる場面が幾つかあった。これはわたし自身、役者として舞台にたった時に難しさを感じていた所だが、コメディこそ真剣に綿密に思いっきり遊んでやりたいものだ。 とは言え、たった一言で笑いをとりながら、あのコピーのセリフに重さと悲しさを持たせた宮本さんの絶妙さや、その宮本さんの「さき」と再び祝言を挙げることになった高瀬さんの「浩之」の年齢のギャップのおもしろさ。それを心から祝福する今村さんの「浩太」、SASAKOさんの「ふく」。真剣なだけにますますおもしろい。「浩太」「浩之」「浩一」の親子三人のつながりが「水虫」であること、随所に散りばめられた少々時代がかっているベタベタな笑い。ここで来るだろうなと思っているところにハマってくる古いギャグ。それは悪いことではなく、いまだにドリフや吉本新喜劇の型どおりの笑いに人が笑う、定番の笑い、やる側とみる側の「お約束」だろう。 様々な年齢と様々なキャラクターの集まった「支木」。深刻なテーマを持ちつつも、笑いもとれる「支木」ならではの味をこれからも生かしていってもらいたいと思う。 (劇団雪姫 俳優・制作) ページトップへ 目次へ ◆演劇評 モレキュラーシアター公演 「娯楽精神溢れる知のテーマ・パーク〜『LEGEND OF HO』〜」 五十嵐隆 青森県に拠点を置いて活動を続けている劇団の中で、最も先鋭的かつ高質な作品を作り続けているのは、間違いなく豊島重之率いるモレキュラー・シアターだろう。だが、その国際的な評価の高さとは裏腹に、青森県内での知名度は驚くほど低い。八戸に拠点を置くモレキュラー・シアターが日本で最も海外招待公演の多い劇団の一つであるという事実は、ほとんど県内の演劇人には知られていない。その、日本を代表する現代芸術カンパニーの一つであるモレキュラーの、青森市では実に16年ぶりの公演である。 2000年10月21日土曜日。青森中央埠頭県営2号倉庫。大きな入り口をくぐると、倉庫の中に何やらもう一つ「二階建ての建物らしきもの」と、その二階へと続く階段がある。「これが舞台装置か?」と思っていると、何やら単純にそうでもないらしい。スタッフの誘導によって階段を上がり、二階の入り口からその「建物」の中に入る。その中は目測で3間四方の空間。天井からぶら下がった吊革と、自然光が遮断された薄暗い室内が、まるで営団地下鉄のような雰囲気を醸し出している。パンフレットに「先着40名」と書いてあったのはそういうことなのだ。成る程この空間ではそれ以上の観客を収容することは出来ない。 薄暗い部屋に閉じこめられた観客達を包む、奇妙な期待感と不安感。いったい、「舞台」すらないこの奇妙で薄暗い構造物、空間は何なのか?「建築を体験する」こと。それは「身体的な事件としてそれを経験する」と云う意味において、まさに演劇の原初的経験に近接する。〈演劇を鑑賞する身体〉それ自体への異化作用。60年代後半から70年代にかけての小劇場演劇で度々用いられた手法であり、それ自体は目新しいものではない。ただ、そこに有機的ないかがわしさや怪しさが感じられないところが30年前のアングラ演劇と大きく異なるところだ。だがそれにしても、四方を壁で囲まれたこの空間の、一体どこで演劇が上演されるのだろう?壁の一部に換気扇の口が開いてあって、回転するファンの向こうでは外人女性がマイクを通じて何やら喋っているのだが、勿論私には彼女が何語で何を喋っているのかなどサッパリ分からない。そして結論から言えば、「その一つ一つを分かる」と云う形で全てを追いかける必要など無いのだ。それはこれから始まる膨大なる演劇の、ほんのインデックスの一つに過ぎないのだから。 突然、観客達の足下に異変が起こる。足下が、開いていく。観客が入っていた部屋の床は透明な強化アクリル板で、更にその下にあるに灰色のゲートがあるという二重構造になっているのだ。正確には、床一枚下のゲートが開いていって、パフォーマンスは観客の真下で行われるのである(『LEGEND OF HO』という作品は四場から構成されるが、この「床の開閉」はいわば「暗転」の役割を果たすことになる)。そして観客達は自分達の足下にパフォーマー達が現れる瞬間、どうやら自分達が「観客席という安全圏」に安穏として座していられる存在ではあり得ないことを予感するのだ。 「鑑賞者/表現者」は、「見る/見られる」という関係に対応している、と云うパラダイムへの揺さぶり。このテーマは、今回の作品の中で様々にフォルムを変えて散りばめられている。例えば、ある行為を行っている役者(仮に、キャストA)を、別の役者(仮に、キャストB)がデジタル・ビデオ・カメラで撮っている。観客はキャストAの行為を見ると同時に、それを撮っているキャストBの姿を見ることになる。さらには、キャストBが手にしているビデオ・カメラの液晶モニターに映った映像をも目にしてしまうのだ。キャストAを見ている〈私〉。それを撮っているキャストBに気付く〈私〉。キャストBの液晶モニターを見ている〈私〉。そして「一体これはどう受け止めたらいいのか?」と困惑する〈私〉。一人の観客の身体の中に、それぞれに異なった位相の〈私〉が重層的に立ち現れる。だが、「これは一体どう受けたらいいのか?」という問いの答えは存外簡単だったりする。そのまんま素直に受け止めればいいのだ。「なるほど、〈私〉って言ったって、いろいろだよな」、と(きっと〈分裂を怖れる人〉ほど、モレキュラーの演劇は「ワケの分からないモノ」なのだろう)。 『LEGEND OF HO』の〈HO〉とは、豊島重之に言わせれば〈呆〉であるという。言葉遊びの好きな(そして一歩間違えば親父ギャグの)豊島に習うなら、この〈HO〉は〈方〉と云うイメージをも指向するものだと私は考える(そして同時に〈方〉はベクトル=方向の〈方〉であり、四角は〈視覚〉でもあるはずだ)。作品全体に溢れる〈方〉、すなわち〈四角〉のモチーフ。四角い壁、四角い床、四角い液晶モニター、四角い印画紙、四角い写真、プロジェクターの四角いスクリーン・・・。〈安定〉、〈意味〉の象徴としての四角=〈方〉。だがそれらは、いずれも作品内に〈確固とした方〉としては現象しない。あらゆる行為はそれが意味として同定されようとする瞬間それを拒み、鑑賞者が予想するであろう物語の着地点を軽々と裏切ってゆく。まるで「世界があんたの思っているようなものだなんて、いったい誰が決めたんだ?」とでも言っているように。足下で繰り広げられるパフォーマンスは、作品テクストの言葉を借りるならば、「〈パラダイムへの無自覚な信仰〉は 〈野蛮〉以外の何物でもない」ことを告発し続けるかのように展開する。あらゆる世界が〈崩〉壊していくなか、観客は否応なく「分裂しながらもその事に付き合わざるを得ない〈私〉」が洗い出されていくことを経験していく。そして、〈生〉を決定するのはあくまで本人の意思であることを発見するのだ。世の全てを無意味化していく難解な芸術のその底に、まさか〈希望〉を発見するとは思ってもみなかった。「パンドラの箱」とはこういう事を言うのかも知れない。なんと世紀末に相応しい演劇なのだろう!一切の政治的メッセージもイデオロギーも主張しないこの作品が、その背後に歴史と時代をこれほどまでに喚起させる事実は驚嘆に値する。 〈方〉なるものが、〈呆〉け、〈崩〉れていく、その位相の美。〈Aなるもの〉を〈anti-A〉によって相対化するのではなく、「Aであったもの」が呆けて溶けだし、「Aではなくなる局面」。 フランクフルト・バレエのW・フォーサイスがダンスの「フォルム」ではなく、「フォルムが崩れるその瞬間」に美と価値と新たなる物語を見出したように、豊島重之は〈呆〉なる位相に拘ったのだろうか。演劇であることにギリギリ踏みとどまる豊島の作品は、それ故にまさに「演劇以外の何物でもない表現」へと純化されていく。モレキュラー・シアターの作品に感動するのは実のところ、その「政治的意味云々」ではない。観念的なテーマを具象化する、その発想とテクニックだ。ハッキリ言って無茶苦茶な力技である。コンテンポラリー・ダンスのコリオグラファーならいざ知らず、普通の劇作家はこんな抽象極まりないテーマを具象化しようと真正面から取り組んだりなどしない。真正面に向き合うことの愚直さを嫌うが故に、どうにでも解釈できる描写を提示して「これが現実だ」という顔をするか、あるいは演劇の武器である言葉に逆に絡め取られてしまい、説明臭くなるかのどちらかだ(まるで、この劇評のように)。安易なニヒリズムに陥ることなく全ての世界を〈生〉へとダイナミックに転換させ、返す刀で演劇をはじめとする「様々な〈表現〉が無自覚に〈制度〉へと寄りかかっている事実」を鋭く告発する今回の作品は、ある意味豊島重之が90年代に拘り続けてきた「PASSAGEの演劇」の集大成と言えるかもしれない。 このテーマで、こんな表現がありなのか!ここでこんなことやっている!あそこでも!鑑賞者がいったんその作品の「楽しみ方」を掴んだなら、『LEGEND OF HO』は観客にとって、まるでテーマ・パークのような意外さと驚きと、そして楽しさに満ち溢れる作品へと転換する。先に述べたように、一つ一つのインデックスを一々理解しようと追いかけなくても一向に構わないのだ。そのテーマ・パークの設計理念は、「どっからどこを見ても楽しめるように作ってます」なのだから。芸術はありがたがって祀り上げるものでもなければ、難しい顔をして解釈と理解を競うものでもない。何よりもまず、楽しむものだ。「それを楽しむ」という発想をしない限り、芸術は永久にカッコ付きの〈芸術〉に過ぎない。「青森県内の劇団」というカテゴライズに意味など全くないが、こんなにも知的興奮と楽しさに溢れた作品を作り続けている劇団を、私は青森県では他に知らない。 無論、幾つか気になる点はある。その一番は豊島舞踊研究所出身のキャストと、それ以外の、いわゆる演劇畑出身のキャストとの〈身体の強度の差〉である。後者は豊島重之の硬質な論理を体現するにあたって、身体が追いついていない印象を受ける。演劇にとっての言葉の重要性を軽視する気はない。しかし一般的な俳優の訓練がいかに言語的な表現といった文脈にウェイトをおいてなされているのかを考えさせられる。結果的に際立ってしまったキャスト間の身体の温度差は、決して演出家の意図したものではないように思うのだが。 私自身のボキャブラリー不足もあるが、モレキュラー・シアターの作品を言葉で描写することは非常に難しい作業である(その事が県内のメディアでモレキュラー・シアターの活動が紹介され難い理由の一つではあるだろう)。言語で同定可能な行為ならいいのだが、モレキュラー・シアターの演劇は「演劇」でしか表現出来ない世界なのだから。あんなにも世界観を確立してしまったら演出家はさぞ孤独なのだろう等と勝手に想像したりもするが、孤独なる自我なればこそ友情も成立するのかと、あらためて豊島作品が海外で高く評価され続けている理由の一つも分かったような気になる。出来上がった世界観に安住している人にとって、モレキュラーの演劇はまさに劇薬のようなものなのかもしれない。しかし、その出来上がった世界に対して「そんなもの全部嘘っぱちだ!」と言っているかのような豊島の意思は、まるで少年のように純真だ。 人が「表現する」「表現せずにはいられない」とはどういうことなのか。表現者でも何でもない一介の観客の私にも、モレキュラーは鋭い問いを突きつけてくる。〈それが「生きる」ということだから〉。それ以外の答えを、私はまだ見つけ出せていない。 ページトップへ 目次へ ◆演劇評 青森大学演劇団健康公演「二等兵物語」 天坂克格 今回の青森大学演劇団健康・第19回公演「二等兵物語」(上演時間1時間)。今年で劇団旗揚げ10周年であり、つかこうへいの作品を蝦名奈央が演出した。 青森大学演劇団健康は青森市で唯一、大学内に拠点を構える劇団である。劇団構成員が全員大学生という事により、平均年令が市内の数ある劇団の中でも最も若い劇団といえよう。 この演劇団健康、一昨年の12月に行われた第17回公演「半神」以降、上級生の引退による新体制が始まった。つまりは前作・第18回公演「海へと」は新体制間もないという事でこれまでの体制との比較が難しいとしても、今回の「二等兵物語」は彼ら新体制の真価が問われる、彼らにとっては重要な作品であるという事ができる。 作品の舞台は、第二次世界大戦時下の満州国。ストーリーは帝国陸軍・満州102小隊と、朝鮮人従軍慰安婦チュンジャ(近藤直子)を中心に流れていく。夜な夜な男達の相手をしているチュンジャ。彼女で女を知り、惚れ込んでしまった同隊所属の藤村二等兵(萱森由介)。戦争という極限状態の中、逃避行を企てる二人。しかしそれを妨害する、藤村の上官である甘粕大尉(佐藤正道)。そして混乱の最中、同102小隊長(佐々木史恭)から伝えられる大戦へのソ連参戦と玉音放送の報せ…。 彼らは102小隊は無事に帰国できるのだろうか?藤村とチュンジャの運命は?そしてこの戦争の意味とは…? 話の展開は学生らしく、パワーとスピードが漲るものであった。だが、それしか見受けられなかった。 確かに、このパワーとスピードは青森市の劇団では彼らにしか為し得ない芸当である。しかし彼らは、この個性に安住してはいないだろうか?そして<新体制>という言葉自体から来る焦燥、若しくは焦慮の様な物は無いだろうか? 私事だが先日、昨今の韓国ブームに便乗して家族とキムチ作りに発挑戦した。インターネットを利用してレシピも調達。白菜を塩漬けし、葉の一枚一枚レシピ通りに配合した<具材>を塗っていき、寒く暗い部屋に保管。このキムチ、2・3日で食せるとレシピには書いてあったが、保管して2日間は皆我慢して熟成を待った。だが3日目には待ちきれず樽の蓋を開けてみた。そこには、紛れもなく、市販されている<あのキムチ>が鎮座していた。家族の誰もが、あのキムチ独特の濃厚な味を口の中に、宛ら日本人が梅干を見た時に反応する「条件反射」の如く、その味を想像し唾液に夢を膨らませた…。 …だがしかし、味は…とても食べられた物ではなく、残念ながら<犬も食わぬ代物>であった。 私が幼少のみぎり、風邪を引き寝込む母に代わり、3歳年下の妹が味噌汁を作ってくれた事がある。これは、正に<味噌汁>であった。一見すれば普通の味噌汁のそれと何ら変わりは無く、味噌色した液体に豆腐が浮き沈みしている。だが、どうも味がおかしい。汁にコク、深みが無いのだ。そう、幼い妹はダシの存在を知らなかったのである。しかし父と私の男二人は、妹の充実感に満ち溢れたその笑顔の前では、このダシについて指摘する事は全く出来なかった…。 話を劇評らしい話題に戻そう。 一流俳優は演じる役を<降ろす>そうだ。一見イタコの様にも感じられるが、言い得て妙で面白い。 役者とは才能に依る所が大きい商売である。だが、この世にゴマンといる役者の内、極一部を除けば才能以上の努力によりその才能を開花させているのであろう。先程の<イタコの役者>も然りであろうし、「朝起きたら役が降りていた!」等は一般的には考えられない事と思っても良いだろう。 さて、今回の「二等兵物語」、私は残念ながら、舞台で照明を浴びる健康諸君に人間臭さを感じられなかった。どこか他人事のような、どこか客観的な、人間誰もが持っている登場人物自身の<歴史>が無かったと思われる。 作品は、もはや我々には遠い過去となってしまった戦争の話であった。一体、出演者諸君の内で、この戦争自体を再検討してみた人はどの位いるのだろうか。自らと戦争の関係を問い正した人はどの位いるのだろうか。 仮に大学生の日常を綴ったシナリオなら、この様な行為は不要であるだろう。だが、我々の日常とは懸け離れた題材には必要な作業ではないだろうか。 私は「物事には必ず裏がある」と思っている。表層からは何も分からない、若しくは分かった気がするだけだとも思っている。そしてもし、その裏の部分を垣間見る事が出来たのならば、少しばかりであろうが事の本質に近付くことが出来るだろう。 冒頭、キムチと味噌汁の話をした。これも同様である。キムチと味噌汁は、一見するとそれぞれキムチと味噌汁であった。だがその本質は前述の通り全く異なった物である。 演劇とは役者が他人の人格を纏い演じるという事。そこでは如何にして役者個人の刻んできた歴史を登場人物の歴史に同化させるかが鍵になると思う。 本質を見極めずして、真の姿を見ずして、役者が登場人物と同化するのは困難を極めると思う。そして、仮に表現できたとしても薄いものになるだろう。 話は変わる。 大まかに言って、私は演劇とは3つの表現形態、ベクトルがあると考えている。それらは[1.思想的内容 2.純粋にエンターテイメントとしての内容 3.マニア向け、玄人向けの内容]であると思う。それぞれ具体的に、1.は「自己の特異な主義・主張を表現する、以前の学生運動時代に多く見られた内容」。2.は「観衆を楽しませる事に主眼を置いた内容」。3.は「ナンセンスや、ニヒリスティックな自己の表現満足に主眼を置いた内容」と仮に定義付けておく。 では、ここで演劇団健康の表現形態、ベクトルを考えてみよう。 私は過去に何度か健康の芝居は観たことがある。そして、どの作品にも一貫して言えるのは「パワーとスピード、そして何よりもユーモアがある」という事。つまり、私は健康のベクトルは端的ではあるが上記2.であると思うのだ。 しかしどうだろう。今回の作品は単純に2.と言い切れるだろうか。シナリオは1.的な戦争を題材としたものであり、その演出は2.の要素が占める割合が大きい。 私が以前勤務していた所は全国規模で展開する企業だった。その影響によるものなのか、営業所の所長が一年間で数回変わった事がある。そして、その都度行われるのが<営業所の模様替え>であった。当時の私は営業所内で最も下っ端だった為、新所長から<模様替え担当>に指名され、新所長と一緒に深夜遅くまで模様替えをした記憶が、鮮明に残っている。 私は履歴書の趣味の欄に“趣味・模様替え”と書く事が出来る程、模様替えが好きな人間である。だが他人の、しかも職場の模様替えは全く面白くなかった。無論、真剣には作業出来なかったし、しなかった。机や椅子を動かしながら「何故、所長交代の度、模様替えをするのか?」等を考えながら何度か作業した。その結果行着いた私なりの模様替えの理由は、新所長は模様替えにより「自己の色・特色を表現しようとしているのではないか?」という事であった。 冒頭にも述べたが、今回の作品は演劇団・健康にとって上級生の引退による新体制の真の意味での幕開けであり、その真価が問われる作品であった。しかしどうだろう、少し無理をしすぎたのではないだろうか。 恐らく今回が初舞台の人も多数いたのだろう。恥ずかしそうに舞台上に立っているのを何度か見た。舞台中、初演者とその他経験者の区別が容易に出来た。緊張して顔が強ばる、声が震える等は仕方が無い。これらは経験が解決してくれる。だが、恥ずかしそうなのは考えものである。こちらは経験云々よりも、演者本人の意志の問題だろう。 また、やはりシナリオの選択にも疑問が残る。今回、何故このシナリオを選んだのだろうか。12月の公演という事による、開戦記念日が近い為なのだろうか。それとも作家つか氏の劇団が、この作品を最近上演したからなのだろうか。 このシナリオは非常に難しいと私は思う。ダンスを含めた“陽”の部分と、強姦や特攻といった“陰”の部分の演出的統一は困難を極める作業である。そして、この混在に拍車をかけていたのが、「“陰”を“陽”で吹き飛ばそうとする演出」である。どのように考えても、少年兵の特攻は笑えない。従軍慰安婦への強姦は笑えない。これらは、そう易々と昇華出来るシロモノではないだろう。 演劇団・健康は非常に良い個性を持っている。他劇団には無い、他ならぬ唯一の個としての表現形態を持っている。この個性は簡単に手に入れられる物では無い。健康諸君はこの様な宝を持っていて幸せなのだ。他劇団はこの個性を求めて、他との差別化を意識するあまり右往左往し逃走する場合が多い。 先程、「話の展開は学生らしく、パワーとスピード漲るものであった。だが、それしか見受けられなかった。」と書いた。恐らく、この文章と、これまでの内容に矛盾を感じる人がいるだろう。だが違うのだ。健康の個性は素晴らしい。しかし、「だから問題無い」という訳ではないのだ。私は個性は追及してこそ意味があると思う。そう、安住ではいけないのだ。是非この個性を大切にして、追及していって欲しい。 また、確かに新体制としての独自色を出すのは大切な事である。だが、そればかりに気を取られすぎてはいないだろうか。極普通に、ありのままの自分でいれば自ずと独自色は出てくると思う。そう、結果は後から付いてくる。余り急がず、意識的に普通の自分でいれば良いと思うのだが。 最後に突然だが、野生と理性の話をさせて頂く。よく、雑誌のインタビューなどで女性が「わたし、ワイルドな人が好きなのぉ」と答えている場合がある。さて、この場合の“ワイルド”とはどの様な意味なのだろうか?恐らく、胸毛の有無は関係無いだろう。もし関係があるのならば、彼女等は「わたしイタリア人が好きなのぉ」と答える筈である。さて、冗談はこの位にして、つまり彼女等は恋愛に“ワイルドさ”、即ち“野生さ”を求めていると考えられるのだ。そして、これは具体的に言って“野生→動物的”そして対義語としては“理性→社会的”と推測できると思う。 我々が日常を送っている全ての物は“社会的”である。服も経済も信号も、全て“社会的”の基で存在している。即ち、“社会的”とは人間の“理性”が作り出したものと言えるのだ。しかし、犬とか猿には“理性”が無いから裸で、損得も無く、信号も無視して歩く。だが、我々人間も動物の端くれ、動物的欲求は持っていて、ステーキを食べて嬉しいと感じるのは“野生的”快感、料金が安くて嬉しいのと感じるのは“理性的”快感であるだろう。 さて、健康諸君は上記“野生”と“理性”、どちらを演劇として表現していきたいだろうか。安易かもしれないが、わたしは健康諸君には一般的大人には到底表現しえない“野性的な演劇”を作って欲しい。 仮に、病弱で精神的に疲労している人がいるとしよう。そして、そんな人が県内の演劇を見るとしたら、私は是非健康を観て欲しいと思う。 健康には人を勇気付ける力がある。人を励ます力がある。斯く言う私も、過去に健康に勇気付けられた事がある。観る前は暗く落ち込んだ気分だった。しかし、観た後はイキイキとした気分で家路につく事が出来た。そう、健康の芝居には、もし外が吹雪でも、他劇団では「うわぁ」と思う吹雪でも、「よぅし、地吹雪体験ツアーに行くか!」という気分にさせるのだ。 頑張れ演劇団・健康!人を健康にする為に!情けは人の為ならず!誰かは分からない、何ら因果の無い人間でも情けをかければ、自ずと自らにも幸せが舞い込むのだ! 演劇団・健康の今後の健闘を期待して・・・。 ページトップへ 目次へ ◆演劇評 青森大学演劇団健康公演「二等兵物語」 佐藤優 今回の劇評にあたり、私にしか書けないモノを書こうと考えている。その観点から今回の視点を「大学生から見た大学生の劇団」にあてて進めようと思う。よって舞台の批評というよりも今回の「二等兵物語」はあくまで話題の中心には入れずに健康に対して私が思うところを、私と同年代の人達が創っている舞台や形成・運営している「劇団」について僣越ながら書いてみたい。 健康の事を書く前に、先ず健康も属する「学生演劇」について私なりの見解を。演劇は「学生」の占める割合が様々な意味で大きいと私は考える。私の見聞に限定されるがそれによると、「学生演劇から発展していった団体やOBなどで結成したという劇団等が数多く、ルーツを学生に根差す演劇関係者が多い」という事実が浮かび上がるのだ。実際に私の周囲にも本格的な演劇との遭遇は中高のクラブ活動や大学のサークルという人が多い。大多数の演劇人が「学生」を経由しているということは、演劇の世界そのものを左右しかねない波及力を学生は持っているのだろう。健康も当然その一翼を担い走り続けている学生劇団の1つである。当然同じ大学生で演劇に携わらせてもらっている私としてもとても良い刺激になり、常に目が離せない存在なのだ。 余談になるが健康の方々の印象を少々書きたい。学生劇団の団員というのは私から見るととても大人に見える、当然ながら健康も例に漏れない。その原因はおそらく大学の4年間というサイクルにあるのだろう。現在の健康の体制は、柴山大樹・前代表(現・劇団夢遊病社代表)を中心に創り上げてきたものを蝦名奈央・現代表が引き継いだ形になっている。この世代交代という波が大学という限られた時間の中で絶えずやってくる事が彼らの強みなのではないか。全団員が時間経過に伴いいつか必ずどこかで責任を背負い、叩き上げられ、先頭に立ち、やがて引っ張っていく立場になるというこのサイクルこそが、団員個人の力の源なのであり、私にとって大人に見える要因ではないだろうか。同年代の人間がそんな事をやっているという時点で私には考えられないことであり、尊敬していまう。 今回の「二等兵物語」は新体制になって間もなく、また1年生が全員出演するという公演だったという事で本当の意味での再スタートだったのではないだろうか。「新しい健康」が顕著に試される機会であったとも思う。 健康の今までの色と言えば「パワー」や「勢い」などでありとても精力的な舞台を楽しませて頂いた。今回も舞台はその健康の良い色を損なわずに継承したと私は感じた。今後の意気込みのようなものがよく現れていて、私にしてみるととても好感触だった。芝居そのものも勿論だが、私が特に今回の公演で着目した点は芝居だけではなく公演の芝居以外の部分にある。 「大学生らしさとは何なのか?」私は健康の方々と同じ大学生なのだがこれまで学生演劇に携わる事が出来ずに今に至るため大学生らしさという事に対して異常に関心がある。前述の「勢い」「パワー」などもこの学生らしさに当たると思うが、私はそれを全部含めて「ラフな感覚」と定義付けたい。「ラフな感覚」という言葉は私なりの解釈なのだが、かしこまり過ぎずに相手に警戒心を覚えさせない感覚であり、自然体で形式や格式に囚われ過ぎない姿勢、それは決して適当とか中途半端という意味ではなく、いわゆる「相手に対して心地よい力の入れ具合」であり「縛られていない良い雑さ」なのだ。それが、学生演劇が良いと私が勝手に思っている部分である。その目から見た健康の公演は芝居以外の部分でラフさに少し欠けるところがあったように感じられた。そこに「堅さ」が感じられたのだ、言い換えると良い意味の雑さが感じられなかったのだ。芝居そのものにはそのラフさが感じられたのだがそれ以外の、ある部分では感じられなかった。妙にかしこまっていた風に見えてしまって、そこが手伝って私自身がかしこまってしまった感がある、それが唯一の心残りだ。 健康の舞台というのはいつも見ていて温かみがある。それは芝居の内容や印象とは関係なく舞台そのものの雰囲気でだ。大道具や小道具、照明、チラシに至るまであらゆるものが手作り感覚でとても私は好きだ、見ていてとても安らぐものがあってその雰囲気が羨ましい。だからこそ、そのラフ感を大事にして欲しいと思うのだ。 健康にはひたすら頭が下がる、同じ学生なのにこんなに頑張って走り続けている方々がいるというのにはただただ感心する。そして、自分も負けてはいられないと触発される思いだ。世代交代を繰り返しながら成長を続けていく健康にはいつも魅力的なラフさを振り撒き続ける存在でいて欲しい。 今後も彼らは必ず面白い舞台を創りつづけて私たちを楽しませてくれるであろう。そういう期待をしたい、というよりはそれ以外はあまり考えられないのが正直な所だ。 (劇団雪姫・俳優) ページトップへ 目次へ ◆演劇評 青森高校演劇部自主公演「不思議なクリスマスの作り方」 佐々木真理子 校舎内にある天井の低い教室、客席は約四十席、そして学校独特の寒さ。これが彼女達の公演会場だった。この寒さで2時間、耐えきれるのだろうか…。 心配しながら公演を見始めて二十分、私の中で、すでにそんなことはどうでもいいものに変わっていた。それは、この舞台が、「演劇の面白さはこれだ!」と思わせるような、演劇的な舞台だったからだ。 舞台は、蛍光灯を使った地明かりと軽快な音楽、そしてリズム感溢れるセリフのテンポで始まった。 ▼クリスマスプレゼントを買うために百貨店はゴッタがえしていた。この百貨店にたまたま買い物に来ていた八人が、エレベーターに閉じ込められてしまうことから話しが始まる。 それぞれが動揺している中で、一人のうつむいた少年(藤巻緑)が片隅でマンガ本を読んでいた。その本が「寂しがりやのチャーリーブラウン」。物語は彼の読んでいる本の世界へと移動し、八人は物語の登場人物として動き始める。 そこでは、誰もが知っているスヌーピーのメンバー八人<スヌーピー(山谷)チャーリーブラウン(藤巻)ルーシー(工藤)シュレーダー(石田)サリー(斉藤)ライナス(竹内)パティ(永井)マーシー(高谷)>がクリスマス祭の出し物のため、芝居の稽古に励んでいた。 あらすじは、「暗くて、口下手で、何をやってもうまく行かないダメ男が、サンタクロースの袋を拾ったことで貧しい子供や老人にプレゼントを配り、人の為に何かできることに喜びを感じ、人生に希望を見出す。」という単純なもので、この男役をチャーリー=片隅の少年が演じることで、後に少年の閉ざされた心の開放へと繋がっていくのだった。 スヌーピーはすべてを知ってか知らずか、少年と他の六人に様々なことを提示していく。それによって六人は、「エレベーターの片隅にいる人物が実は少女であって少年ではない。少年に見えるのは、彼女が寂しさのあまり心を閉ざし、本の中のチャーリーブラウンと自分を重ねて空想しているからだ。そして自分達も空想の中の一人なんだ。」ということに気づき始める。「エレベーター」は少年(少女)の閉ざされた心で、その心を開かなければ扉は開かない。7人は彼女の心が動き始めると同時に自分達は消えてしまうということに戸惑いを感じつつ、彼女にすべてを告げることを決意する。そして閉ざされていた彼女の心は次第に開き始める。▲ この、現実→空想→空想が演じる芝居の世界は、すべての役者が一人三役を演じるというものだった。 そしてそれを一つの物語として進めて行くには、少年=チャーリー=ダメ男といったように、すべてが必ずどこかで繋がっていなければ、見ている側は混乱したに違いない。 この繋がりを最後まで乱すことなく演じきった八人の役者の力量には感心させられた。また、現実→空想→空想が演じる芝居への場面転換を役者の演技と微妙な照明の変化、ストップモーション、暗転の中で駆け巡るセリフの緊迫感、などによって?いでいく演出は、より話しの内容を分かりやすく、面白いものにしていた。 誰もが知っている、このスヌーピーの世界を観客が見たとき、原作の持つイメージは非常に強いもので、嫌でも見比べてしまう。 八人のキャストは男役・女役を問わず、すべてが女性によって演じられたものだった。しかし彼女達は原作の持つイメージを壊すことなく独自の世界を広げていた。 独自の世界とはどんなものか。 たとえば、山谷真弓の演じたースヌーピー。 スヌーピーは誰でも知っていると思うが、犬だ。通常おもちゃ屋に「かわいい」という意味でぬいぐるみとして売られているが、山谷が演じたスヌーピーは多少、愛らしさ?はあるが、全くかわいくない。そこがいい。当然ながら、犬なだけに無表情でセリフは全編通して「ワン!ワン?ワンワン…」だけだった。しかし、この犬が持っている残酷なまでにクールで、人間性を諭すような存在を、彼女特有の重量感と細かい演技が「これでもか」というほどに語っていた。 そして藤巻緑。劇中には、なぜ少年(少女)が心を閉ざしたのか?その理由に「寂しい」以外の説明は出てこない。そのため役者が「単に寂しかった」だけの演技をするのであれば、心を開く瞬間もさほど印象的なものとして残らなかっただろう。しかし、彼女の演じた少年には、今にも壊れそうなほど繊細で、純粋な透明感があった。この存在が、「いつまでも空想の中にいたいんだ」という少年の思いを切ないまでに語り、なぜ心を閉ざしてしまったのか、その訳を色々想像させるのだった。 もちろん、それだけではない。空想の世界で「女性に求愛されるシュレーダー」役を演じた石田千恵。彼女は自分の持つ個性を意図的にもしくは感覚的に活かし、大胆でスマートなシュレーダー像を作り上げていた。それは、男役を女性が演じているなどという違和感を全く感じさせず、最後まで観客が女性だと気づかないほどだった。もしこの役を男性が演じたとしたら、「愛してる」「愛してない」などという甘いセリフをここまで素直に聞けなかったのではないか?とさえ思わせた。 この舞台は、山谷独特のスヌーピーと藤巻の少年(少女)、そしてそれを取り囲む空想を演じた六人の役者、音、明り、その関係性があったからこそのものだろう。この中の一つでも欠ければラストの感動には繋がらなかったのかもしれない。 舞台で唯一足りなかったもの。 それは、舞台上ではないところにあった。長時間の舞台は、観客にとってもかなりの集中力が必要とされる。そのため、ほんの些細なことで「フッ」と冷めてしまうことがある。そこから、気を取り直して観る事ができるか、それ以降、苦痛になるかは観客によって違う。けれど一度切れてしまった集中力は簡単には戻らない。 残念なことに、私の座っていた席は最前列の下手端だった。この席から、上演中、袖に控える役者が見えるのだ。更に、舞台袖で小道具を仕込む音が聞こえ「これがさっき音がしてた鍋かあ。この鞄のファスナーかあ。」などと、芝居とは全く関係のないことを考えてしまった。 舞台全体を通して考えた時、それは小さなことだったのかもしれない。しかし、本来舞台の世界には無いはずの物が見えたり、聞こえたりするのは観客にとって余計な想像をさせてしまう。これは舞台を創る側にとっても、観客にとっても「損」にしかならない。積み重ねて創り上られた世界が一瞬にして壊れてしまうのだから。役者一人一人に「今は本番中なんだ」という強い自覚と気配りが欲しいところではあった。 それにしても、一体この舞台を市内演劇関係者の方々の何人が見ることができたのだろう?見ていない人を否定しているのではない。ただ、「ぜひ見てもらいたい。非常に惜しい!」と思わせる舞台だった。 時折、演劇に携わる方の中には、演劇のレベル、活動を評価する際、「高校演劇」と言う言葉をマイナスの意味で使うことがある。極端に言うと「そんなの高校演劇と一緒だ、高校演劇レベルだ」などと。 けれど、彼女達の「高校演劇」は少なくとも有料で上演された舞台に劣るものではなかった。というより私にとって彼女達の舞台は、今年一年観てきたものの中で、これほど演劇的で泣きたくなるほど興奮した舞台はなかったように思う。 過去の高校演劇ガどういうものだったのか私には分からない。そして今、演劇関係者の方達がどの程度、高校生によって創られた演劇を見ているのかも分からない。けれど、私は彼女達の舞台に「高校演劇」という表現自体が間違っているのではないか?とさえ思った。たしかに、有料と無料、ホールと学校の教室、十七才と二十才では違いがあるのだろう。でも彼女達は教室でやっている芝居だから、無料だからといって、いいかげんなものを創っている訳ではない。「演劇が好きだ」という一生懸命ながむしゃらな思いだけで創っているわけでもない。観客に芝居を見せるというのはどういう事なのか。それをちゃんと考えているのだ。 観客が「演劇」に何を求め、何に感動するのか?それは個人によって違う。だから私が、彼女達の舞台に興奮・感動したのは、私個人の感じ方なのかもしれない。けれど、より多くの方々に、この高校生の彼女達の存在を知ってもらいたい。 彼女達の舞台を知らない方はたくさんいるだろう。けれど彼女達の顔ぶれは、市内のさまざまな演劇の公演会場で、観客として目にする。きっと年間市内で行われる芝居んほとんどを観ているに違いない。 その、演劇に対する強い思いは、今後も身近に上演されている舞台を、踏み台に、今以上のものを創っていくのだと思う。わたしは、これからも「演劇」を観るために、高校生によって創られた彼女達の公演を見逃さないようにしていきたい。 (劇団雪姫・俳優) 作:成井豊 演出:青森高校演劇部 ページトップへ 目次へ |
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