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アミューズ(地元雑誌)7月号掲載原稿

文:田中勉(八戸・スペースベン)

タイトル
「人生いろいろ」

 人生どんな幸せが待っているか
分からない。
 優しい人とめぐり会って一緒に
なるのもそのとおりだろうし、自
分と合わないと思える人とめぐり
会うのも幸せなのかもしれない。
 問題は、何をもって自分を幸せ
と感じられるのかということかも
知れない。
 優しい人々と付き合っていると
いつの間にか、自分が優しくなれ
るような気がし、トゲトゲしい人
々と付き合っていると、いつの間
にか、自分がトゲトゲしい人にな
ってしまうような気がするのが一
般的なのであろう。
 昔から、類は友を呼ぶという諺
があるが、果たしてそれは、公平
な目で世の中を見ている言葉なの
だろうか。
 ちょっと違うが、同じように、
健全な魂は、健全な体に宿るとい
う人もいる。
 五体満足な健康な肉体を持ち、
小学校からタバコを吸い、問題児
とされる子ども達には、同じ様な
仲間ができるということか?
 生まれた時から障害を持ち、ど
こかしら病気を抱えた子ども達に
は、同じような仲間しか出来ない
ということか?
 そこには、どこかしら閉鎖され
た社会しか許されていないような
イメージを受けてしまう。
 そんな事は、思ってなんかいな
いと言う方は多いだろう。
 しかし、現実に社会で起こって
いることは、どうだろうか。
 家庭内での教育も出来ずに、学
校のせいにする。集団生活という
ものの大切さを表に掲げ、自分の
子どもの躾けも出来ない。そうい
ったものの中から、今、問題にな
っている少年問題の全てが発生し
てきているとは思わないが、少な
からず、育てる立場の者が弱体化
していることは否めないのではな
いか。
 親の顔色を見て育つ子どもは、
ロクな者にはならないと言う人が
いる。
 果たしてそうだろうか?
 親の威厳があるとは、今の世の
中思ってもいないが、親の顔色を
見て状況を判断できない奴は、社
会に出ても常識がなく、それこそ
社会の中で適応できない人間が多
いということを考えれば、顔色を
伺う奴、万歳である。
 考えてみれば、世の中に反発す
る人間、迎合する人間、それぞれ
に人の顔色を伺う達人なのかも知
れない。
 なぜならば、第1印象で判断で
きる能力、それこそが、今の世の
中で求められている能力の一つだ
からなのだと思う。
 人と付き合う中で、第1印象で
決めつけ、自分の世界を狭くして
しまうのはナンセンスだと思う。
 しかし、逆に言えば、第1印象
で人を見抜く能力、年に関係なく、
理屈ではなく、自分の味方になり
得る人間か、敵になる人間かを見
抜く能力、ひいては社会のために
なる奴かどうかを見抜く能力は、
本能にも近い、するどい目を忘れ
ずにいる能力なのではないだろう
か。
 誰かが何処かで悲鳴を上げ、い
つもどこかでSOSの信号を打ち
上げている今の世の中、そのどれ
もに付き合おうという気はさらさ
らないが、せめて自分の周りの人
間が送り続けるものは、見逃さず
に受け止める柔軟性は失いたくな
い、と同様に世界の悲鳴は見逃し
たくないのである。
 煩わしい人間ほど、いとおしい
と思うのは、演劇的発想なのだろ
うか。
     ●
 現在、「21世紀まつりプロジェ
クト」なるものが行われている。
 平成10年度に行われた、青森県
文化観光立県宣言なるもののイベ
ントが、今年は東京ドームで開催
されないが、それに変わるものと
して、青森市、八戸市、弘前市の
3市の商工会議所が事務局となり、
新しい祭りを創りあげようとする
ものである。
 第9回となる、札幌でのYOS
AKOIソーランの、柳の下の3
匹目のドジョウを狙ったものでは
ないが、地方分権と東北新幹線が
現実のものとなり、なにかアクシ
ョンを起こさなければという危機
感があるのは事実である。
 先日、札幌で開催されたYOS
AKOIソーランも観に行き、凄
まじい熱気を感じた事も事実であ
るし、始めた発想の斬新さにも感
嘆させられた。
 しかし、何かを始めた時点で、
それは古くなってしまい、今、次
を考えている人たちは、YOSA
KOIでは出来ない次の事を考え
ている。
 それがいいことかどうかは分か
らないが、常に勝ち続ける能力は
何かと問われれば、世の中変わり
続けていると認識できる能力では
なかろうか。
 私自身も、その事は忘れたくな
いと思っている。
 昔の財産で生きているような、
現状維持は後退にしか過ぎないの
である。


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